昭和46年2月13日 十三日会★★
教祖様は「人が助かる事さえできれば結構である」と仰られて、お道の言わば信心のまあ、願い、またそれはそのまま神様の願い。金光大神の願いということになるのです。だから、そういうように、神様の願い、私どもの願い、金光大神の願いが「人が助かる事さえできれば」というところへ焦点を置かせて頂くということ。それには、並大抵のことではなかろうと思います。人が助かるということでございますから。
先ほど、福岡の安東さんが、「親先生、今年はあの、年頭から、もういよいよ捧げる為の生活に入りたいと思います」とこういうお届けがあっとりました。
ところが、なかなかやはり、捧げとるようにあるし、まあ思うておるのですけれども、まあ、自分ところの有り難いもの( ? )けれども。それとは反対に、まあたとえて言うなら、商売敵のお家なんかというような所の事に、為にはなかなか捧げられない。それがもどかしく歯がゆいと思うておりましたが。
まあ先日から、そういう方がおられましてね、( ? )の方で、もうそれこそ捧げるどころかもう、ほんとに足の一本でも折ってやりたいっちゅうごたる心まで起きてきた、とこう言われる。難しいもんですね、捧げるということはね、決して清らかなものでなからなければ、神様が、いくら捧げてもそれを受けては下されませんがね。
いかに自分の好きなものを捧げておっても、それが自分の嫌いな方には、それこそ足の一本を叩き折りたいっちゅうごたる、そういう心で(こち?)捧げても、神様は受けて下さるはずはありませんからね。ね。だから、そこんところに、ほんとに取り組ませて頂いておりましたら、それがだんだんおかげ頂いて、その、まあ言うなら、商売敵のその人のことの上にまで、祈りがかけられるようにならせて頂きましたら、それから一両日したら、その先方のご主人ていう人が、そのまあ、始めて見えられたというようなおかげを頂いた、というようなことを言うておられます。ね。
ですから、この捧げるというてもね、私どもの、その捧げるそのものが、私は、ほんとに神様に喜んで頂けれるようなものでなからなければ、神様は受けて下さらない。
これもまあ、文男先生がお届けさして頂いとったんでございますけれども、この十六日に、この自分の、北野の方の生家の方で、今度、見事な新築ができまして、そんでそこのお神様のお部屋も、今度は造らして頂いたから、神様を奉祭申し上げると同時に、霊様も合わせてお祭りをして頂きたい、ちょうど、宿縁にあたる霊様もあることだから、と言うのでございます。
それで、私、三、四日前に、あの、その準備をいたしましてから、霊様の習礼をさせて頂きました。そしたらね、あの四名の霊様がおられますが、もう一番始め、ご本人方はその、信心があるわけでもないのにですね、その贈り名をずーっと続けて頂きましてね、こんなことは(?)贈り名はなかなか、一年経っても二年経っても頂けない人があります。
やはりあの、霊様の一つの位を現すものでございますからね。また、助かりの度合いを現すのでもあります。ですから、とにかく、そんなにいっぺんに頂くと思わなかったところが、四名の方の霊様の全部贈り名を頂いたんですね。
それで私あの、思わせて頂いたんですけれども、ほんとにあの、昔から申しますよね。例えば御仏様に、その、命を捧げると。( ? )家の中に一人その、坊さんになる人ができると、もう七生ぐらい前の仏さんが助かられる、というぐらい。しかしそれはほんとだと思いますね。自分の我情我欲を捨て切ってしまって、それをその、妹家に捧げるとです。( ? )の場合もそうです。
それはどこに焦点を置いておるかと言うと、「人が助かる事さえできれば」という、神様の一番喜んで下さるそこに焦点を置いて捧げておるのでございますから、なるほど、ご先祖の霊様が贈り名を受けられるのも当然だというような感じがいたしました。
それでまあ、そのお祭りを前にして、最近、まあいろんな修行、先生しとりますけれども、「もう最近思わして頂くことは、今私が思うておること。今私がさせて頂いておること。今私が言うておること、というそのことに、本気で取り組ませて頂いて、そこをいよいよ、改めるとこを改め、清めるところは清めるという生き方でおります」ということを言うております。ね。
神様に、ただ捧げるというても、ね。汚れ果てたものを捧げたとこで、神様はそれを使うて下さるはずはありません。人の助かることの為の御用であっても、いかにその事自体が素晴らしいことであっても、その捧げておる者のその心が貧しかったら、神様はお受け下さいません。「人が助かる事さえできれば」ということは、もうほんとに自分自身が助かっておらなければなりません。
そこで私は思うのです。ね。「捧げる焦点」ということを、ね。十三日会は、いわゆる「神様の願いが成就する日」としてここでは大事にされます。だから、神様の願いがどのような形に成就して行くのか、また、どこに焦点を置かなければならんのか、といったようなことを、やはりやって行かなければならない。
また、その事の焦点を神様に、私お願さしてもらいよりましたらね、★小さい、あれはあの、三本鍬の小さい、このくらいばっかのがありますが、草取り、草取ったでしょうかそれは。やっぱ三本鍬の形した、小さい片手で動かすことできるやつ。それで一生懸命大地に取り組んで、大地を耕しておるところを頂くんですね。荒地を耕しておるところ。まあ、私どもが耕すと言うても、そのくらいの事じゃないでしょうかね。大地に取り組むと。
ですからその、大地そのもの。先日からも、日田の方から参ってみえた方が「先生、私始めて合楽の教会にお引き寄せを頂いた時にです、どうして人間の力でこのような事ができただろうかと思うてたまがりました」ね。そして、思うたことは、「やはりここでは人が助かってござるなぁと思うた。これは自分も助かられるなぁと思うた」ね。例えばお広前が光輝きつぐようになる。まあそういう働きにまでに繋がってくるのですよ。ね。
皆さんが例えば十三日会に、それこそ「境内の草一本むしらして頂こう」と。これは、やはり、捧げた事がそのような形になって現される。「柱一本でもひとつ磨き上げさして頂こう」と思わしてもらう。ね。それがそのようなことになる。それはね、小さい三本鍬で、片手で持てるくらいなので、大地に取り組んだ姿でもありましょうけれど、ね。それがやはり十人が百人ということになってまいりますと、やはりその力は大きいです。ね。
同時に私は、大地に取り組むということ。私が修行中に頂きました、教祖の奥城の前で頂いたことでございますけれども、★二代金光様、私が四神金光様、ね。四神金光様のお指図の一番始めに受けたんです。まあそれからの修行というのは、もう今から思うと、まあ、ようああいう信心ができたなぁと思うくらいでした。もう四神様が付きっきりで、いうならば、修行のことを、に取り組ませて下さった。もうそれは、泣こうと思うても泣けないくらいな激しいことでした。そういう時代です。ね。
四神が、ね、あの、教える事は、ちょうど三本鍬で、ね、荒地を耕すようなものだ、だから激しい。ね。一生懸命に荒地荒屋敷の荒屋敷を、一生懸命三本鍬打ちこんでね、耕すようなものだとこういっておられる。ね。
それがどういうことかというと、一生懸命の、なるほどいろんな表行ができる。表行もさして頂いておりましたが、心の上の行であります、自分の心を「これで良いことはない、限りなく打ち耕させて頂く」ということ。ですからもうそれは、たいへんな、だから、「ただ今修行中」様々な難儀を持っておる人の場合はです、そういう自分の心を、心の大地にいよいよ取り組む時なのです。ね。
そこから、言わば教祖の修行、平鍬です。耕した所へ、教祖様の、言わば豊かな、優しいと言うかね。平鍬でこう形を合わせて下さる。(畝?)を作って下さる。そこに天地の親神様の働きがはじ、えー ご無礼。そこから、いわゆる、今まで心を耕しに耕して、生まれてきた所の信心の喜びの種がまかれる。ね。
いわゆる四神様のご修行を受ける、ね。教祖金光様の、言うならば、整地を頂く。ね。「四神が三本鍬なら、教祖は平鍬だ」と。そこに形が合わせると、そこんところへ、ね、信心になって生まれてくる信心の喜びの種がまかれる。その上に、燦燦として、天地の親神様のお光、または、お湿りお恵みがここに注ぐのだ。そこから良い芽が出て来るのだ。そういうひとつの過程を出なければ、人が助かるというようなことは、とても及びも付かないことだと思いますよ。
先程安東さんが言われるように「今年は捧げる事に尽くす」と、いかに言うたところで、気張ったところでですね、それは大したことはないです。ね。いかに言葉は美しいけれどもね、そういうことよりもね、本気で信心の稽古をさせて頂くということは、そのことじゃなか。ね。自分自身の心、もっともっと打ち耕さなければ。ね。三本鍬をもっと打ち込ませて頂かなければ。汚いものを捧げたところで神様は受けて下さるはずはありませんよ。ただ、自己、自分よがりですよそれは。ね。
ただ自己陶酔ではいけませんから信心は。ね。神様がお喜び頂けれる。お喜び頂けたら、そこに、そこにはっきりとです、ね。自分の耕されておるところの喜びが湧いてくる。「はあ、これが教祖のご修行を受けておるのであろうか。これが自分が今、種をまかせて頂いておるのであろうか。これが喜びの芽が実りきったのではなかろうか」と、どっこりおかげの芽がそこから生えるようなね、私は程度というものが必ずある。
私どもがほんとうの意味において、ね、神様に喜んで頂けれる「捧げる生活」ができれる時に、ね。それはまず、自分の上の、ね、言うならば、七代も前の霊様までが助かられるほどしのおかげ、そういう働きがあってくると私は思います。ね。
お互い、ね、まあ今日こそは、ただ、今日一日ではあるけれども、純粋にですね、神様にお喜び頂けれる、神様の願いが成就されることの為に奉仕しよう、いよいよ捧げようというのです。ね。
そういう、例えば初歩的なね、ところから、言うなら小さい、ね、三本鍬で、それこそ草一本でもむしらして頂くということに、私は、ね、有り難いものを感じれれるような、ひとつのおかげを頂かしてもらい、ね。それが自分の心の上にも耕される働きになって来、ね。そして、そこから、ね、神様が喜んでおって下さる、捧げられるもの。または、それを受けて下さるものが感じられるおかげ。
とにかく信心は、いよいよのぎりぎりの焦点はね、「私が助かりさえすれば良い」ということになります。ね。「私が助かりさえすれば良い」というのが、最近言われる、ただマイホーム的な意味においての助かりではなくて、その助かりが、この信心の喜びが人にも分かつ、分かたなければおられないというほどし、またそういう思いが湧いてくるほどしの助かりでなからなきゃならんことは、もちろんですよね。どうぞ。
明渡 孝